2023.03.27更新

インパール作戦

1944年(昭和19年)3月に[3]帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、

イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵

が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。

 

牟田口廉也(むたぐち れんや、1888年10月7日 – 1966年8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。

牟田口は、佐賀県鹿島市に生まれた。陸軍士官学校第22期、陸軍大学校第29期を卒業後、参謀本部に勤務。1937年、盧溝橋事件で支那駐屯軍司令官に任命され、中国戦線で指揮を執った。1941年、太平洋戦争が勃発すると、第25軍司令官としてマレー作戦を指揮し、イギリス軍を降伏させた。1944年、第15軍司令官としてインパール作戦を指揮したが、作戦は失敗に終わり、牟田口は責任を取って解任された。

牟田口は、インパール作戦の失敗の責任を問われ、「愚将」と批判された。しかし、近年では、牟田口の責任を過大評価する見方も出てきている。牟田口は、作戦の失敗の責任を一身に負い、生涯後悔の念にさいなまされた。

投稿者: 株式会社新丸太不動産コンサルティング